選ぶことができるから、選ばないことに意味がある

人生観★★

常々、時間を気にして行動していると感じる。決して良い意味ではなくて、でも悪い意味というわけでもない。ただ、時間が経過を恐れ、敏感になっている。

時間の経過に「もったいない」

そう感じるのは、休日だ。何の予定も障害も存在しない、文字どおり空白の1日。

朝、うっかり2度寝してしまうと、「もったいないことをした」と思う。

ゴロゴロしながら、ぼーっとしていると、「うわ、もうこんな時間か!」と我に返る。

書籍や漫画を読んでいると、「この書籍(漫画)には、休日を捧げる価値があるのか?」なんて考えが浮かぶ。

無意識に「待った」をかける自分

とにかく、時間を少しずつ使いたいと考えてしまう。

その考え自体は、悪いことじゃない。ただ、それが自分の行動に対して、無意識に「待った」をかけてしまっているのではないか。

旅行にいこうかなと思っても、「でも、旅行に行ったら連休が終わっちゃう」という考えが浮かぶと、まぁ今度でいいか…となってしまう。

大学時代は、たった1つのイベントのために夜行バス内で2連泊するなんてこともあったのに、今では決してできない。

安全な休日の過ごし方

行動のハードルが、ぐっと上がっている。

それは、自由時間の価値の上昇に伴うもので、大きなメリットがあると感じられない限り、無意識に「安全な休日の過ごし方」をするように求めてしまっているからだ。

すなわち、休日に冒険ができないということ。

それが自然体?

…なんてここまで書いてきたけど、元々、予定なくのんびりするのが極上の過ごし方だと思っているのだから、それが僕の自然体といえなくもない。

昨年、無職だったときも、その考えはまったく変わらなかった。半年ほど自由だったけれど、通常の土日の延長のような過ごし方を繰り返した。

だけど、そのときでさえ、時間に追われていた。3ヶ月は遊ぼうと決めていたのだけど、それは「3ヶ月経過したら、次のことを考えないといけない」ことを意味していた。

死ぬまでの自由が約束されても、結論は同じ

もし、死ぬまでの自由が約束されていたら、僕はどういう過ごし方をするのだろうか。

改めて考えてみたけれど、おそらく大半の時間を、今の休日のように、のんびりと過ごすんじゃないかなと思う。

そう。結論は変わらないのだ。

選ばされるか、選ぶか

しかし、結論が同じであればいいという単純な話ではない。

同じような時間の過ごし方でも、選ばされている(選ばざるを得ない)のと、積極的に選んでいるのとでは、意味合いが大きく違う。

以前に、疲れ切ってだらだらするのと、ご機嫌にだらだらするのとでは、同じ「だらだら」でも全然違う…みたいなことをどこかで書いた気がするのだけど、それも同様だ。

実際に選べるからこそ、選ばないことに意味がある

現状はというと、やはり選ばされている気がする。週5で働いていると、どうしても仕事中心の生活になり、休日でも翌週の平日のことを考慮してしまうのだ。

「(もし選べたとしても、)選ばない。」
「(実際に選べるけど、)選ばない。」

前者と後者は、似ているようで違う。実際に選ぶことができてこそ、「選ばない」ことに意味が生じる。

現状は、後者とは言えない。完全に前者だとも言えないけれど、後者より前者に近い。それが、僕の中でもやもやとしている。

「選べるけど、選ばない」ができるように。

選べるけど、選ばない。これを目指していきたい。

そのために一番効果的だと思っているのは、「労働時間の減少」。そして、労働時間の減少のためにできることは、生活コストの削減だったり、収入の手段を確保することだったりするわけだよね。

できることから、1つずつやっていきたいなぁ。


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