社会貢献は義務感ではなく、やりたいことの延長線上にあるべき。
★もくじ★
一人前だと認められなくてもいい。
僕は未熟のまま大人になった。
僕は人間的に未熟だ。一般的な人から見れば、出来損ないかもしれない。僕はもう、四捨五入をすれば30歳になる年齢だけど、心はまだ少年のままだよ(`・ω・´)笑?
なんて冗談はさておき、僕と同じ年代であれば、立派な大人として生きている人が大半だ。働きたくないと考えることはあっても、本気にはしないだろうし、彼氏彼女と結婚を意識した付き合い方をしはじめる。中には既に、こどもの親になっている人だっているんだ。
僕だって、現状の外面でいけば、それなりにまともに生きてきている。だけど内面は違う。一貫して働きたくないと本気で考えているし、そういう生活に向けて、着々と手を打ってきているつもりだ。そんなことを考えているから、恋愛には積極的にはならないし、結婚なんて思考の外側にある。
他人のために生きているわけじゃない。
そんな僕も、過去に幾度となく考えることがあった。
親を悲しませないだろうか。期待してくれている人を悩ませないだろうか。みんなが当たり前にやっていることを、僕だけが逃げるようなことをして卑怯ではないか。世間的に許されるのだろうか。
しかし年々、この迷いは消えつつある。というよりは、ここ数年間でほとんど消えた。僕は他人のために生きているわけじゃない。周囲の人から、一人前だと認めてもらう必要もないんじゃないか。
他人に大きな迷惑はかけたくない。それは今でも変わらない。だけど、それ以上のことは、個人の判断でかまわないよなぁ。
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社会貢献は義務感で行うべきものじゃない。
国のために子どもを育てている人っている?
この社会への貢献というのは、あくまで結果論ではないかと思う。乱暴な言い方になるけれど、「日本の未来のために、わたしは子どもを育てているのだ!」なんていう人がいるかなぁ。
そうじゃないよね。あくまで根本的なエネルギーは、利己的なものであることがほとんどじゃなかろうか。子どもを育てたいから育てる。ただそれだけのはずだ。そしてそれが、最終的には日本の未来のためになる。
労働についても同じだ。税金を払うために働いているんじゃなくて、生きていくために働く。そしてそれが結果として、税金を払うことで、日本を支えることにつながる。
すべては結果論であって、それについて悩む必要はないのではないか。
自立して生きることで、義務は終了。
社会への貢献は、自分がやりたいことの延長線上にあるべきだ。決して義務感で行うものではない。
僕も含めて、みんな自分の意志で選んでいるんだ。誰も強制されてやらされているわけじゃない。だから極論をいえば、迷惑さえかけなければ、社会貢献なんてしなくてもいい。
いや、自立して生きてさえいれば、嫌でも社会に貢献している。子どもを育てることで人口増加には貢献できなくても、低収入であって税金の支払いが少ないとしても、問題ない。少なくとも、生活の中で消費税を支払っている。またモノやサービスを消費することで、多少なりとも経済をまわしている。
それで最低限の義務は果たしているんじゃないか。自立して生活するだけで、義務は終了。それ以上は、できる人、あるいはやりたい人がやればいいんじゃね(´・ω・`)?
もちろん子どもを育てることは尊い。サラリーマンとして勤め上げることも、すごく立派だと思う。だけどそれを義務として行うのは、誰も幸せにならない。
結果はあとから付いてくる。
それぞれができることをやろう。義務感で行うことは、良い結果を生まない。自分でやりたいと思ったこと、あるいはやるべきだと思ったことをやるほうが、物事は良い方向に進む。
そしてそれが、結果的に社会貢献にもつながるはずだ。もしつながらなくてもかまわない。最低限の義務は果たしているのだから。
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— ゆとり隊長@年100万円生活 (@yutori_ing) 2016年10月15日
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